味舌小学校の皆さん、おはようございます。73年前の今日、広島に、そして3日後の9日には長崎に、原子爆弾が投下され、多くの方が亡くなられました。
戦争は、多くの方が亡くなったり、けがをしたりするものなのです。6月の朝会では、私の父から聞いた話として、昭和20年の7月4日の香川県高松市の空襲のことを皆さんに伝えました。爆弾やミサイルが破裂する場所では、戦闘機や空母、戦車が使われる場所では、多くの人々が苦しい思いをしていると話したのを覚えていますか?国と国の関係がうまくいかない時の解決の方法として、武力を用いることはあってはならないと皆さんに話しましたね。
今日は父から聞いた話の続きです。空襲で家が跡形もなく焼けてしまった父は、荷物を疎開させていた場所へ父の母(私の祖母)と疎開しました。8月のある日、ため池で泳いでいた父は、アメリカ軍の戦闘機の機銃掃射を受けました。慌てて物陰に隠れたそうですが、パイロットの顔が見えたそうです。
その数日後、父の姉(私のおば)が瀬戸内海で機銃掃射を受けて亡くなったので、遺体を高松の港まで引き取りに来るように知らせが入ったので、大急ぎで父は母親と港まで出かけました。
変わり果てた姉の姿。静かに眠っているようにも見えましたが、お腹にはぐるぐる包帯が巻いてあり、血が滲んでいたそうです。そこにいた人が、「姉さんがあんたのために持って帰ろうとしていたりんごや。食べなさい。」とりんごを渡してくれたそうです。父は泣きながらそのりんごをかじりました。
父の姉さんは、当時二十歳。小豆島で働いていました。7月の空襲で自分の家が焼け、家族の無事は聞いていましたが、とにかく早く会いたいと思っていました。そんな思いの中、ようやく8月8日に休みが取れ、高松行きの船に乗り込んだのでした。
船が高松に近づいた時、アメリカ軍の3機の戦闘機の機銃掃射を受けました。1機目の機銃掃射で甲板にいた人の何人かが犠牲になりました。父の姉は物陰にいて無事でしたが、甲板に置き忘れた荷物を取りに出た時に、2機目の機銃掃射を受けました。背中からお腹を弾丸は貫通し、内臓が飛び出しそうになっていたそうです。3機目は機銃掃射をせずにそのまま飛び去りました。
上半身が砕けたようになって生き絶えた人。足がちぎれた人。甲板は凄惨な状況でした。父の姉は、お腹を自分でおさえ、医務室へ行きました。包帯をお腹に巻いてもらいましたが、「お母さん、お母さん」と言いながら息を引き取りました。後日、一緒に高松へ帰ろうとしていた人から、父はその時の様子を聞きました。
8月8日が近づくと父は家のベランダからいつも夜空を見上げていました。そして涙をこぼしていました。父の姉が取りに戻った荷物の中には、弟に食べさせるためのりんごが入っていたのです。「姉ちゃん、りんご取りに戻らんかったらよかったのに」嫁ぐことも決まっていた大切な娘を亡くした父の母(私の祖母)も「かわいそうなことをした」と亡くなるまでいつも言っていました。
尊い命が失われ、そして残された家族の心にも、いつまでも心に大きな傷跡が残るのが戦争なのです。父はいつもそう私に話してくれました。父は昨年亡くなりましたが、私は父に代わって、父の思いを語り続けたいと思います。
今日の登校日、この後、戦争はカッコいいものではなく、人の命が大切にされないものだということを、皆さん学んでください。