2018年6月7日木曜日

父からの話(平成30年6月7日・朝会にて)

 昨年亡くなった私の父は、6月から7月にかけて、毎年高松の空襲の話をしてくれました。私がまだ小さい頃から亡くなる前の年まで、何度も何度も話してくれました。

 昭和20年7月4日、午前3時にもうすぐなろうという真夜中、突然大きな爆発音がしました。ここは香川県高松市にある丸亀町商店街です。(父の家は商売をしていて、商店街に店を構えていました。)病気で戦地から帰ってきていた父の兄さん(私の伯父)と父は、母(私の祖母)を連れて逃げました。よく行った近所の食堂から大きな火柱が上がっています。焼夷弾(油の入った筒のような形をした爆弾で、落下すると油に火がついて火災を発生させる)がしゅるしゅると音を立てながら、オレンジ色の雨のように次から次へと落ちてきます。ドカーンと大きな爆弾が破裂する音も聞こえます。空を見上げるとB29(アメリカの爆撃機)が空を埋め尽くしています。

 たくさんの人が栗林公園や玉藻城(高松城)の方へ逃げています。そっちの方へ父が行こうとすると父の兄さんは「あかん!死んでもいいんか?」と言ったそうです。兄さんは飛行機の進行方向を見ながら、逃げる方向を指示してくれました。

 朝の5時ごろまで空襲は続きました。その後、自分の住んでいた家の方へ行ってみると、自分の家も周りの家も焼け落ちてしまってありません。お店で使っていた金庫だけが残っていたそうです。庭のあたりに黒焦げの細長いものが横たわっていました。それは近所の人の遺体でした。2時間の空襲で高松市では1300人以上の方が亡くなったそうです。

 当時小学校5年生だった父です。子どもは死を意識するものではなく、未来を語るものだと私は思います。しかし、父は死ぬかもしれないという思いの中で、空襲の中を逃げ回りました。悲しい話だと思います。

 父はこの話のしめくくりにいつも言いました。「戦争はかっこいいものではないんや。大切な命が失われるのが戦争なんや。」また、外国で起きた戦争のニュースで、爆弾が爆発したり、ミサイルが命中したりする場面を見るたびに言っていました。「あの周りで人が亡くなったり、大けがをしているんや。」広島や長崎の原爆投下時の映像がテレビで流れる時にも「あのきのこ雲の下で、何万人もの人が亡くなっているんやで。」と言っていました。

 いろいろな問題は、国と国の間でも、人と人の間でも発生します。でも、お互いが生きるということを大切にしながら、解決していかなければなりません。暴力はいけないという話と同じことです。父は亡くなりましたが、父の思いはきちんと私が、次の世代に話していかなければならないと思います。